2014年9月 ムスタン巡礼の旅(前篇)
c0219616_18512899.jpg

ネパール・チベット国境に「ムスタン」という国がある。昨年の春、ムクチナートからアンナプルナベースキャンプに向かう途中、「ムスタン」へ行く計画があることを知らされた。「ムスタン」のことは何も知らないが、一にも二にも「行きたい」と強く思った。

ムスタンは今もネパール国(共和国)から認められた半独立・自治国家である。都は、ローマンタン。チベットと国境を接し、チベットが急速に中国化される情勢にあって、今もチベット文化、とりわけチベット仏教への敬虔な祈りが途絶えない、秘められた世界が残っている。多くの人々がムスタンに魅了され、徒歩で、騎乗で(いまはジープも)ムスタンを訪れる。世界にいち早くこのムスタンを訪ねたのが、仏教経典を捜し求めて入境した日本人、河口慧海である。

『ムスタンは何世紀もの間、独立の王国であった。この国は、北のチベット文化圏と南のインド文化圏とを結ぶヒマラヤ交易路によって栄えていた。カリ・ガンダキとその支流が形成した広大な河谷の中には、古くからチベット高原とネパール・インドとを結ぶ道が開け、人と物資と情報の往来があった。地勢上、周囲から隔絶されて独立性が強く、しかも政治的な理由から長らく外国人の立ち入りが禁じられていたためであろう。ムスタンにはチベット仏教を基盤とするヒマラヤの伝統文化が、まるでタイムカプセルのように残されている。(中略)、ムスタンの旅を、私たちは密かに「マンダラ(曼荼羅)・トレッキング」と呼んでいる。こう呼ぶのは、それがすばらしいマンダラに出会える山の旅であるからばかりではない。この旅そのものが大きなマンダラの中を巡礼するような体験であるからだ。』(ムスタン 曼荼羅の旅、写真 松井 亮、文 奥山直司、中央公論新社)

いささか前段が長くなってしまったが、さらに映像なしの独白が続く。抱腹絶倒、涙、涙のムスタン、ローマンタンへの旅にご一緒あれ。

Day 1st (09/11)札幌→成田→インド・デリーが今日の予定であったが、札幌は昨夜来の大雨。早朝の札幌駅に着くと、「千歳線全線不通」の掲示。やむなくタクシーに乗ったものの、空港ターミナル直前のアンダーパスが冠水で不通。Uターンして、苫小牧側の空港道路を目指すが、この道路もターミナルまで1.5kmのところで冠水・不通。「まさか!」。タクシーを降ろされた。土砂降りの雨の中を大急ぎで歩いた。ターミナルに到着した時は出発予定時刻をとうに過ぎていたが、新千歳空港自体が大雨のため閉鎖されていたので、成田便は大幅に遅れて出発した。3時間遅れで成田に到着し、デリー便まではもう15分程度の乗換え時間しかない。「きっと、待機しているJALの地上係員が私たちを大急ぎで国際線搭乗口まで案内してくれる」と期待し、飛行機を降りた。案の定JALの地上係員が「小林様」のプラカードを提げて待機していた。ところが彼女の口から出た言葉は、「デリー行きはもう間に合いません。本日のホテルと明日のデリー行きを予約させていただいております」であった。「どうしても乗らなくては、これからの旅程がすべてキャンセルされてしまう。なんとしても今日のデリー行きに搭乗するのだ。飛行機に待つように、あなたは連絡してください!」と地上係員に言い放ち、衣子とともに全力で走り始めた。成田空港の国内線ターミナルから国際線ターミナルへ、そして手荷物検査、出国手続きへとひたすら走りに走った。女性のJAL地上係員はなんと!、ハイヒールで私たちをぴったりと追いかけ、「小林様、小林様、本日は無理です。お止まりください、お止まりください、小林さま~」と何度も叫びながらついてくる。「なんとしても乗る。飛行機に待つように、そして預けた荷物をうつしかえるように連絡してくれ」と言いながら、「小林様、小林様、お待ちください、お止まりください」の連呼を振り切り、ついに出国手続きも終え、デリー行き搭乗口に着いた。「飛行機はまだいるではないか!間に合った」と思ったが、ロビーにはJAL地上係員以外もうだれもいない。そして搭乗ゲートの係員は「搭乗手続きはすべて終了です。お乗りいただけません」と断固言い放った。「まだ飛行機はいるではないか、機長に連絡を取ってみてくれ。何とか乗せてくれ」と懇願し、二度までも電話で機長に連絡を取らせたが、結局、飛行機はするすると動き始めた。「万事休す」。
 「世界の航空会社で一番時間に正確なJAL」のポスターが貼ってある。「悪天候でほんの5分か10分遅れた客の便宜も考えない、その冷酷さが『世界一』なのだ!」とか、「もうJALなんか使うものか!」とか、悪態をついた気がする。さて、これからどうすべきか。
とりあえず、再度日本国に戻らなければならないらしい。一度出国手続きをすると再入国はけっこう面倒なのか、時間がかかる。一日遅れのスケジュールに変えなくてはならない。変更すべき事柄を考え、連絡先を思案していた。するとJALの係員から「夕方出発のシンガポール行きにお乗りいただき、深夜のシンガポール発デリー行きに乗り換えますと、明朝旅程どおりにデリー・カトマンドゥ便にお乗り継ぎできます」とのこと。「地獄に仏」とはこのことか。今までの悪態を深く詫びた。親切なJAL係員に深々とお礼をし、意気揚々と再び出国ゲートへと向かった。

Day 2nd (9/12)早朝定刻どおりデリー空港着。相変わらず、この空港の国際線乗継ぎ手続きは面倒である。それでも定刻どおりインド航空カトマンドゥ行きに乗り込み、途中ヒマラヤの白い峰々を望みながら、カトマンドゥ・トリプヴァン国際空港に着陸した。そして相変わらずのおんぼろバスに乗り、相変わらずの古びたターミナルを歩き、相変わらずの長蛇の入国ビザ申請に並んだ。そして結局のところ、まったくの予定どおりに、相変わらずの雑踏と排気ガスがたちこめる混沌の街カトマンドゥの訪問者となっていた。
 我々に続いて、今回のムスタントレッキングに参加するメンバー全員がサンセット・ビュー・ホテルに到着し、ロビーを使ってオリエンテーションがあった。ここで判明したのは、今日の午前中のうちに到着していなければ、ムスタン入国の特別許可証をパスポート無しでは取得できなかったということ。つまり、成田に一泊し翌日の飛行機でネパールに向かっていたなら、ムスタンツアーは参加できなかったということである。ここで得た教訓は、「決して諦めるな。自らの判断で最善を尽くすべし」。走って走って、悪態もついた。その努力がシンガポール経由につながったと思う。もちろんJALの方々の暖かい協力があったからこそではあるが。

Day 3rd (9/13)カトマンドゥからポカラへ。
早朝の飛行機で移動。途中、ランタン、ガーネッシュ、マナスルの白いヒマラヤの頂が雲の上に顔を出していたが、アンナプルナの峰々は雲に隠れ、望むことはできなかった。ポカラでは山岳博物館、フェワ湖畔の見物をしてのんびり過ごす。モナリザホテルの夕食が美味しかった。タカリー族風の「ダルバート・タルカリー」である。

Day 4th (9/14)この日は早朝のフライトで、ポカラからジョムソムに飛び、ジョムソムからトレッキングツアーを開始する予定であった。朝4時半に起床し、5時過ぎにはポカラ空港へと向かった。ポカラ・ジョムソム間のフライトは気象条件に大きく左右され、天候が安定している早朝のフライトが確実なためである。ところがこの日、ポカラには低い雲がたれこめていた。アンナプルナの峰々も黒い雲に覆われ、飛行機が飛び立つ雰囲気はまったくない。1便が飛び立つ予定の6時となってもまったくその気配なし。8時を過ぎるころやっと手続きが始まった。我われトレッキングツアーの一行は、1便と2便に振り分けられて、各々に搭乗券が手渡された。すぐにでも出発するのかと思ったら、さらに待たされて待たされて10時。やっとのことで飛行機に乗り込むことができた。20人にも満たない座席数の、上翼のプロペラ機。2年前にもジョムソム空港で着陸に失敗した事故で、日本人2名が亡くなっているいわくつきの路線であるが、天候が良ければアンナプルナ、ダウラギリ、それにニルギリの各連峰を望みながらのフライトだ。しかし今日は離陸して上昇しても、山は何も見えない。有視界飛行であるので厚い雲を避けながら飛んでいく。離陸して20分も飛行したころ、機は左に大きく旋回し高度を上げ始めた。「おかしい」。通常の飛行経路ではありえない。しばらくするとまた大きく旋回。そして機長から「ポカラへ引き返す」と告げられた。ポカラ空港にガックリと首をうなだれて帰還。
 旅程は大きく変更され、ポカラからジープでトレッキングツアーを開始することとなった。今日の目的地はあのタサンビレッジとなった。あの大好きな、ヒマラヤに惚れるきっかけとなったところ。異論はない。これから向かう悪路のジョムソム街道のことも分かっているが、それに代えても大好きな場所である。
 ポカラ空港に3台のジープが準備された。天井に高々と皆の荷物をくくりつけ分乗。11時半にポカラ空港を出発した。そしてポカラの町を抜けていこうとした矢先、我々が乗ったジープは給油に立ち寄り、そのまま何も告げられぬままじっと動こうとしなくなった。「どうして?」。たどたどしい互いの英語で運転手と交わした会話の結果、「3台のジープのうちの1台が故障して立ち往生」らしいことが分かった。引き返して脇道に入ったところに、同行のジープが1台、数人の男達に囲まれていた。修理らしい、ことが行われている。

当り前ながら「時間がかかりそうだ」。その近くを散歩することとした。少し坂を登ったところに、ヒンドゥー教のお寺があった。そして初めてのガート(火葬)に出会った。

c0219616_1915614.jpg
c0219616_1942133.jpg
荼毘にふされた遺体は川に流される。ヒマラヤから流れ落ちるこの急流もやがては「ガンガー」に注ぐ。ガンガーとは、聖なる大河ガンジス川のこと。ヒンドゥー教徒にとっても、仏教徒にとっても、死後の世界が「ガンガー」の向こうに存在する。黄泉の国にこの急流を経て旅立つのだ。ガートを見つめながら、「今ここにいるネパールの人々のほうが、私よりもずっと黄泉の国に近いのだ」と実感した。

故障した車は結局、再起不能。代わりのジープがポカラの町から到着し、なんとかトレッキングツアーは再開した。ジョムソム街道をジープで北上。バグルン、ベニの町を過ぎ、名だたる悪路へと進んでいった。
どれぐらい悪路かと言うと、滝が道へ、道が滝へ?100メートル以上の落差はあろうかという滝の激流が、道路に流れ込んでいた。ジープは果敢にもその激流を乗り切った。
c0219616_1961934.jpg

悪路を乗り切り、すっかり日が暮れてからタサンビレッジに到着。今日の飛行機欠航で変更となった旅程について全員で確認しあった。このムスタントレッキングツアーは、タサンビレッジを設計した楜沢先生を中心に、タサンビレッジを拠点としたNPO活動に協力されている人々が主なメンバーである。総勢13名。
そう、昨年ここでムスタンの旅のことを知ったのだ。
c0219616_197273.jpg


Day 5th (9/15)タサンビレッジ→マルファ→ジョムソム(2720m)→カグベニ(2740m)→チュサン(2980m)
翌朝5:30、朱色に染まる朝焼けのダウラギリⅠ峰(8167m)を望んだ。
c0219616_1971032.jpg


ダウラギリの麓、ナウリコット村には薄紅色の畑が広がっていた。赤い花のそば畑だ。美しい。
眼下をカリ・ガンダキが流れる。
c0219616_22403879.jpg
c0219616_22423164.jpg
c0219616_22431797.jpg

美味しいタサンビレッジの朝食をいただき、トレッキングツアーへとジープに分乗しまた出発した。途中マルファの村に立ち寄った。赤いリンゴがたわわに実っていた。白壁の町並みが美しい。この村にはチベットへと旅立つ河口慧海が数ヶ月滞在した。その逗留址が今も保存されている。
c0219616_22435799.jpg

ジョムソムはアッパームスタンへの入口。ここでジョムソム街道は、カリ・ガンダキ支流で分断され、しばらく徒歩での旅となる。
c0219616_22445025.jpg

ふたたびジープでカリ・ガンダキに沿って北上する。エクレバッティ、カグベニを通り過ぎる。
c0219616_22451516.jpg

景色は一変し、草木が育たぬ乾燥地帯へと入った。自分が知るネパールではない。ヒマラヤでもない。「チベット」だ。
c0219616_10181634.jpg
c0219616_10213330.jpg

カリ・ガンダキの辺に緑の畑が広がるチュサンの町に入った。リンゴ畑とそば畑が美しい。
c0219616_10205892.jpg

我々に先行するトレッキングスタッフが、町外れのリンゴ畑にテントをすでに設営してあった。ここからは、テントトレッキングの始まり。
c0219616_10244289.jpg

午後はチュサンの町を散策した。まさに「hidden city」。中世の町並の中に入る。迷路のような道の両脇に数層(4~5階)建ての泥壁の住居。上ではそれぞれの建物が結ばれている。日本の建物と違って傾斜した屋根はない。平らの屋上には薪が積み上げられている。雨が降らないので屋根は必要ない。冬はすごく寒く、薪は容易に手に入らないため、身近なところに保管されているのだそうだ。ところが最近の地球温暖化でムスタン地方でも降雨をみるようになり、浸み込む雨水で住居の傷みが激しいらしい(楜沢先生の教え)。
c0219616_10261186.jpg
c0219616_10261960.jpg
c0219616_10265253.jpg


チュサンの町外れにある石窟寺院を訪れた。
c0219616_10274815.jpg

立派なものではない。しかし内部は手で掘ったと思われるトンネルと部屋が幾層にも重なり、その間を一本木の階段がつなぐ。外部からの侵入者があったとき、簡単に取り外しがきく。
c0219616_10292651.jpg

真っ暗闇の洞窟の中に、岩を掘った石仏(グリーンターラ)と仏像(シャカムニ)がヘッドライトの光に照らされた。
c0219616_1032271.jpg
c0219616_10321758.jpg

洞窟の窓からはチュサンの町を見下ろすことができる。
c0219616_10355064.jpg
c0219616_10362462.jpg
チュサンの町の向こう、カリ・ガンダキ対岸の岩壁は「パイプオルガン」にもたとえられる。自然の造形の中にこそ、神が作り賜うた意志ある像を感じることができる。人が創り出した「偶像」とは違う。
c0219616_10402235.jpg


Day 6th (9/16) チュサン(2980m)→鉄橋→ガミ(3510m)→ダクマール(3820m)
またしてもカリ・ガンダキの支流が道を分断し、徒歩で上流に向かう。
c0219616_10434259.jpg
c0219616_10442236.jpg
別世界が広がるその向こうで、カリ・ガンダキは急速にその幅を狭め、河には鉄橋が懸けられていた。ムスタンの核心が近づいている、そんな実感を覚えた。
c0219616_10454100.jpg
c0219616_10455211.jpg

ツェレの村を過ぎると、道は一挙にカリ・ガンダキを見下ろす高原に出た。グランド・キャニオンを上にも横にも拡げたような景観である。ため息が漏れる。これからずっと「こんな景色」が続くのだ。
c0219616_10462863.jpg
c0219616_1047232.jpg


サマル(3620m)でお昼を食べる。さしずめオアシスの村。小川が流れ、その辺にポプラの林が広がっていた。サマルは「赤い土」の意。
c0219616_10474675.jpg


行く手にガミの村。緑の畑が大きく広がっている。何世紀もかけて人の手で緑を作り出してきたのだ。自然との闘いなのか、自然との共生なのか。
c0219616_10492821.jpg


ガミの村は、たぶん、「チベット」なのだろう(行ったことはないが)。美しい。
c0219616_10502185.jpg
c0219616_10504593.jpg


白壁の大きな家には中庭がある。コスモスの花が飾られていた。
c0219616_1051616.jpg


c0219616_1053253.jpg
その村はずれから、ホース(馬)トレッキング(旅)が始まった。馬に乗るのはニ・三度目か。覚えているのは、子供の頃、公園で数十メートルを親に支えられながら乗ったこと。緊張だけが記憶に残っている。そして鮮烈なのは大学生時代の「橋本牧場」。あの橋本聖子さんの実家。スキー部の先輩に連れられて訪ねた「橋本牧場」では、ジンギスカン鍋の後に、乗馬体験が待っていた。当時小学生だった橋本聖子さんは華麗に馬を操作していたが、酒に酔った私は、乗せられた馬からものの10㍍も行かないうちに「落馬!」。恐怖が記憶に刻まれた。その馬の上でこれからのトレッキングが始まるという。

覚悟を決めて馬子の指し示す馬に乗った(乗せられた)。このトレッキンググループの男の中では絶対的に一番若い私には、元気で大型の馬が割り当てられたようだ。騎乗するなり勝手にとことこと走り出した。学生時代の落馬経験が頭をよぎったが、すぐに馬子の一人が馬の紐を握り先導してくれた。予想では馬一頭ずつに馬子が付いてくれるものと思ったが、13人のトレッキングメンバーに4人の馬子。「助かった、私の馬はしっかりと馬子に先導されていく」。
c0219616_10541648.jpg
衣子は自力である。「大丈夫かな?」と思ったが、「大丈夫、馬が賢い」。一列になって、今日の目的地ダクマールへと進んでいった。
c0219616_10545499.jpg


ダクマールとは「赤い岩」(red cliff)。まさに行く手には赤い岩山。馬に騎乗し進む大地。すっかりと冒険気分。馬の怖さを忘れ周囲の景色に見惚れるようなった。後ろを振り返ると、麦畑の向うにアンナプルナの白い峰々が美しく横たわっていた。
c0219616_10573075.jpg
c0219616_1058667.jpg
c0219616_10583653.jpg


ダクマールの宿営地に着く。赤い岩の真下にある。夕陽に染まった岩壁は喩えようもなく美しかった。
c0219616_1059812.jpg
c0219616_10593967.jpg


Day 7th (9/17)ダクマール(3820m)→ツァーラン(3560m)。
満天の星空の下での宿営の翌日、真っ青に透き通った晴天の朝を迎えた。草を食む馬たちの向こうにアンナプルナの峰々。
c0219616_1182432.jpg


そして今日も馬に騎乗しトレッキングを続けた。ここでも岩山に横穴の住居が掘られている。上の穴にはどうやって入って行くのだろう。何世紀も前に掘られたものらしい。下の穴はまだ現役で家畜のための干草が貯えられている。
c0219616_1191068.jpg


ダクマールからツァーランに今日は向かう。途中3945mの峠を越していく。地図に峠の名は書かれていない。この道はかつての隠れ道(「罪人の道」)。心に傷をいだいた人達が昔ここを通っていったのだろう。この美しい景色がさぞ心に沁みたにちがいない。我われも馬上から振り返り振り返り眺めた。
c0219616_11121183.jpg
c0219616_13191286.jpg
c0219616_13221965.jpg

c0219616_1324247.jpg
c0219616_1324204.jpg


峠を越えてから、元気な(歩き足りない)私たちは馬を下りた。チベットの諺に『上りで人を乗せないのは、馬でなし。下りで馬に乗るのは人でなし』とあるそうだ。後脚が長い馬は下りが不得手で、重い荷を背負っていると怪我をしやすいのがその理由とのこと。団長の楜沢先生はじめ多くの人は乗ったままではあったが、・・・・、「人でなし?」
c0219616_13245290.jpg
c0219616_13271329.jpg

行く手に不思議な模様の岩山と、そのふもとに広がる大きな緑の村が見えてきた。ムスタン第二の村、ツァーラン。村は広い畑に囲まれ、その畑と荒野の間は石壁で境されていた。強風から畑を守っている。
c0219616_13282256.jpg
c0219616_1329020.jpg


ツァーランでは、寺院(ゴンパ)と王城(ムスタン王の夏の別荘)を訪ねた。

ローマンタンへの旅はまだ続く。後篇をお待ちください。
[PR]
by kobayashi-skin-c | 2014-11-15 18:54 | PHOTO & ESSAY | Comments(0)
<< 2014年10月 北大キャンパ... 2014年8月 大雪旭岳 Au... >>